観光・宿泊

宿泊

素泊まり宿

場所:はさみ温泉湯治楼前
TEL:0956-85-2330 (松下建設)

詳しくはこちら

長生花

〒859-3725 長崎県東彼杵郡波佐見町長野郷557-12
TEL:0956-85-2216

詳しい地図はこちら

泉荘

〒859-3725 長崎県東彼杵郡波佐見町長野郷556-7
TEL:0956-85-2681

詳しい地図はこちら

観光

桜づつみロード

桜づつみロード川棚川沿いに整備された延長7キロメートルの遊歩道。カワセミやサギを見ながらの散歩、ジョギングは心豊かにしてくれる。また、沿道の桜はオーナーを募集しています。 毎年4月の第2日曜日は、「桜祭り」が行われ、ロードレース等様々なイベントで賑わいます。

参照:波佐見町観光協会

しだれ桜(長崎県東彼杵郡波佐見町田ノ頭郷)

しだれ桜毎年3月下旬、淡いピンクの花がいっぱいに拡がるこの枝垂れ桜。丘の中腹にあるので、遠くからでも人の目を引き、うららかな春を知らせます。近寄って見ると樹齢は確かめられませんが、百数十年を経た老木です。近くに子供の若木が2本あっていっそう引き立てます。

参照:波佐見町観光協会

鴻ノ巣公園(長崎県東彼杵郡波佐見町長野郷 )

鴻ノ巣公園大昔、雪の降っている寒い日、どこからともなく見られない一羽の大きな鳥が飛んできました。しばらく空を飛び廻っていたこの鳥は、小高い山の森におりたちました。村人たちは、たいへん驚きましたがこの鳥の名前を知りません。その中で一人の物知りの老人が「あれは鴻(こうのとり)で昔から幸運をもたらす鳥であり孝行な鳥だ、あの鳥がこの村に飛んできたのは何か幸運をもたらす前ぶれに違いない、だからあの鳥を大切にして可愛がってやらねばならない。」と言いました。
村人たちは翌日から木の実や穀物などを持ってその山に登り鴻にえさを与えました。鴻は村人の親切に安心したのか巣を作り卵を産み、やがてひながかえりました。鴻は毎日村中を飛び廻って害虫などを捕ってひなに与えますので村の作物は今までにない豊作となりました。村人たちは大喜びで鴻を大事にしましたが、毎年春の終わりごろになると何処ともなく飛び去り、冬には元の古巣へ帰ってきます。
鴻ノお陰で村が栄えたので、だれ言うともなくその山を「鴻ノ巣山」と呼ぶようになりました。波佐見田原のほぼ中央にある100mほどの山です。
現在、鴻ノ巣山は公園化され運動広場や花園ができ、展望台も作られました。中央広場には鴻をかたどった時計台が建てられ、この物語を伝えています。

参照:波佐見町観光協会

二ッ岳公園(長崎県東彼杵郡波佐見町志折郷 )

二ッ岳公園西の町境に双子のように三角形の山が並んでいます。これが二ツ岳です。波佐見盆地の西の山並は、伊万里から大村湾へ続く断層でできたもので、その線上に玄武岩質の二ツ岳(329m)や弘法岳が噴出しました。これらの火山は、比較的新しいので雨水に削られず、草に覆われた優しい姿をしています。戦前までは頂上に海軍航路標識が立っていました。頂上に立てば、東は波佐見が一望に入り、西は大村湾、早岐瀬戸、佐世保湾が眼下に、遠くは九十九島や五島列島も望めます。

参照:波佐見町観光協会

波佐見焼

波佐見焼長崎県のほぼ中央の波佐見町にあり、桃山時代、藩主大村善前が朝鮮より李祐慶兄弟らの陶工をともなってきました。そして、彼等は波佐見町村木の畑ノ原、古皿屋、山似田の3ヶ所に連房式階段状登窯を築き、やきもの作りを始めました。これが波佐見焼の始まりです。 波佐見焼と言えば、染付と青磁が中心ですが、始めは施釉陶器を生産していました。 慶長七年(1602)に良質の陶石が発見され、しだいに染付と青磁を中心とする磁器へ移行 し、波佐見に皿山役所を設置し、三股山、中尾山、永尾山を管理して、磁器を大村藩の特産としました。 その後、藩の保護の下、次々と登り窯が築かれ、また、各地の陶工たちも集まり、現在ま でに全国有数の和食器の陶磁器産地に成長しました。 江戸地代は白磁が多く作られ「くらわんか茶碗」と呼ばれる簡素な染付文様を描いた飯碗や、「コンプラ瓶」とよばれる海外輸出用の酒瓶は当時波佐見焼の代表的な焼物でした。 現在あまり名前が知られていないのは、伊万里港や、鉄道が発達してからは、有田から発送していたために、伊万里焼や有田焼として取り扱われたためです。

参照:波佐見町観光協会

コンプラ瓶

コンプラ瓶コンプラの語源"conprador"は、ポルトガル語で"仲買人"という意味です。
オランダ人に日用品を売る特権を与えられた商人をコンプラ商人とよび、その組合をコンプラ仲間といいました。コンプラ瓶はコンプラ仲間が作っている「金富良商社」ブランドの瓶です。
波佐見焼きのコンプラ瓶に詰められた醤油が出島から輸出されるようになったのははっきしした年代は分かりませんが、幕末の頃と類推できます。
『波佐見陶史』(昭和44年)に古老の話の記述として次のように記されているそうです。

波佐見蘭瓶長崎港輸出
この蘭瓶については、中尾皿山の人で小柳市左衛門(小柳満太郎祖父)という人が、長崎の貿易商社、コンプラ会社と長崎市古川町吉田松兵衛という人との間に一手特約を結び、小柳氏を中心に三股永尾の三皿山で、壱ヶ年四十万本くらいを特約し、製造を始め取引をしていたが、明治初年頃から次第に特約も減少し、明治40年頃は拾万本、大正5年頃は三万本、大正6・7年には壱万数千本の特約となり、その後醤油の製造が粗悪になってきたため、ついに注文皆無になったと言われている。
この蘭瓶は醤油三合入りの徳利であった。

40万本ものコンプラ瓶が長崎から輸出されていたのが、貿易自由化1859(安政6)年以前か以降かは定かではありませんが、長崎港から輸出された大量の醤油瓶は、今もヨーロッパの古道具屋で目にすることがあるそうです。

清旬の郷・湯治楼パンフレット(PDF)

素泊まり宿(PDF)